橋本真也急逝

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破壊王・橋本真也氏急逝

Webの記事は流れるので、収録出来るものを収録して行きましょう。
引用元とURLも解れば書いて下さい。

橋本真也氏略歴(東京スポーツより抜粋)

1965年7月3日 岐阜県土岐市に生まれる。中京商業高校(現:中京高校)時代は柔道で活躍。
1984年4月 新日本プロレスリングに入門、9月デビュー戦(対後藤達俊、東京・練馬南部球場)
         同期入団の蝶野、武藤とともに「闘魂三銃士」として将来を嘱望される。
1993年9月 グレート・ムタを下し、第14代IWGP王者となる。以後、9連続防衛を含み、20度の防衛、3度のIWGP王者に君臨し、「Mr.IWGP」とも呼ばれる。
1999年1月4日 小川直也との一騎打ちで、失神KO負けを喫する。
2000年3月 力道山メモリアルで小川とのコンビで試合に臨むも、試合前に村上に襲撃され大流血、対小川戦に「引退」をかけると宣言。
2000年4月 小川直也とのシングル戦(東京ドーム)を行い、STO6発でKO負け、引退を余儀なくされる。
2000年11月 新日を解雇され、「ZERO−ONE」を設立。
2000年12月 ノアに参戦、大森隆男(「」)を垂直落下式DDTで圧殺。
2001年3月 ZERO-ONEを旗揚げ。
2001年4月 新日東京ドーム大会に参戦、佐々木健介を蹴殺KOする。
2001年12月 NWA世界ヘビー級を奪取。
2003年2月 三冠ヘビー級ベルトを奪取(第31代)。
2003年11月 コラコラ問答を経て、12月両国で御小と対戦しヒラメ筋を締め上げ、翌年2月にはシングルで再戦してそれぞれ圧勝。
2004年8月 盛岡でタッグ戦(ラストファイトとなる)。
2004年11月 ZERO−ONE崩壊。以後、肩の怪我治療に専念。


新聞等

橋本真也さん急死 脳幹出血40歳(報知新聞)

 破壊王、逝く―。プロレス界のトップ・レスラー、橋本真也さん(本名同じ)が11日午前10時36分、脳幹出血のため横浜市南区の市立大付属市民総合医療センターで急死した。40歳だった。同日午前8時過ぎに同市内の知人宅で倒れ救急車で運ばれたが搬送中に心肺停止、帰らぬ人となった。今秋の1年ぶりリング復帰を目指していたが、最近では心筋梗塞(こうそく)の不安も抱えていた。11日未明には「頭が痛い」と訴え、一度は都内の病院に足を運んでいたという。

 プロレス界を暴れまわっていた破壊王が、急逝した。橋本さんはこの日午前8時過ぎに知人宅で倒れた後、救急車で横浜市内の病院に運び込まれたが、搬送中に心肺停止、午前10時36分に死亡が確認された。遺体は同日午後、横浜南署で司法解剖された後、保土ケ谷区内の葬祭場に一時安置された。出身の岐阜県からは妹の真生さん(32)、師匠で新日本プロレス相談役の坂口征二氏(63)や同期でレスラーの蝶野正洋(41)を始め新日選手らが駆け付け、橋本さんと無言の対面をした関係者は、一様に言葉を失った。

 不吉な予兆はあった。親しい関係者は、橋本さんが倒れる約8時間前の11日午前零時20分過ぎ、橋本さん本人から不調を訴える連絡を受けたという。「頭が痛い。病院のカード(診察券)を探してるが、持ってるか? 病院の場所を教えてくれ」とのメッセージを留守番電話に残し、同日未明には一度、都内の病院に足を運びながらも横浜の知人宅に引き返していたという。また、最近は心臓の薬も服用していたようで約2週間前には不整脈を訴えて、都内の病院に入院していた。

 レスラーの生命線である右肩故障と1億円近い負債で心労が重なっていた。2000年11月に創設したプロレス団体「ZERO―ONE」の経営悪化に伴い昨年11月25日付で経営権を放棄、約1億円の負債を抱える経済難に陥っていた。昨年8月31日の試合を最後にリングを離れ、同年12月には右肩の手術に踏み切った。負債をすべて背負う形で、3月25日には離婚し裸一貫での出直しを誓っていた。この日午後10時過ぎには、債務整理を担当する弁護士事務所が横浜市内で会見し、喪主を務める妹の真生さんは「兄は心筋梗塞の疑いがあると心配していた。母も60歳で同じ病気で亡くなったので、兄も気にはしていた」と語った。

 波乱万丈の人生だった。中学生の時に父親を亡くし、岐阜から上京。アントニオ猪木にあこがれ、新日本の門を叩いた。1990年代は蝶野、武藤敬司との「闘魂三銃士」を結成、新日本の黄金期を支えた。柔道界から転向した小川直也のデビュー戦相手も務め、壮絶な死闘を見せた。10月8日の新日本・東京ドーム大会での復帰戦も浮上し橋本さんも「秋には復帰したい」と語っていたという。10年来の親友・石田克史さんは「負債と故障、悪いことがあまりに重なり過ぎた。自分が復帰すれば数年で(負債は)完済する自信があると常々話していた」と橋本さんの胸中を代弁した。昨秋には「半年でカムバックしたい。おれは奇跡の復活を信じる。いつの日か破壊王は復活する」と話していた橋本さんだが、志半ばにして倒れた。40歳。あまりにも早過ぎる死だ。(小河原 俊哉)

 ◇橋本真也(はしもと・しんや)本名・同じ。1965年7月3日、岐阜県土岐市生まれ。84年、新日本プロレス入団。同年9月1日、デビュー。アントニオ猪木、坂口征ニらの付け人を務め、蝶野、武藤と闘魂三銃士を結成しトップ・レスラーに。00年10月に新日本を解雇され、同年11月にプロレス団体「ZERO―ONE」を設立したが、経営悪化に伴い昨年11月25日に経営権を放棄しフリーに。主なタイトルはIWGPヘビー、3冠ヘビー。得意技はケサ斬りチョップ、DDTなど。183センチ、113キロ。   http://www.yomiuri.co.jp/hochi/battle/jul/o20050711_10.htm

プロレスラー「破壊王」・橋本真也さん、急死 早すぎる…40歳 脳内出血(中日スポーツ)

 「破壊王」のニックネームで人気を集めたプロレスラー、橋本真也さんが11日、横浜市内の病院で死去した。死因は脳内出血とみられる。40歳だった。岐阜県出身で、中京商時代は柔道で活躍。1990年代の新日本プロレス黄金時代を看板レスラーとして引っ張った。その後、独立して新しい団体「ZERO−ONE」を自ら設立したが、2004年11月に活動を停止。同年12月に右肩の手術を受け、リハビリをしながら復帰を目指していた。 

 プロレス界に衝撃が走った。破壊王に突然の病が襲い、帰らぬ人となった。横浜市内の自宅で突然倒れ、救急車で病院に搬送。しかし、既に心肺停止状態だったという。

 午後10時、代理人の伊藤博弁護士と稲垣隆一弁護士、橋本さんの妹真生さんが、同市内で緊急会見。プロレスマニア以外にも多くの若者たちから支持を集めた人気プロレスラーとあって、一般紙も含めて100人以上の報道陣が殺到した。

 橋本さんは、以前から心臓が悪く、不整脈に悩んでいた。高校時代に脳内出血で、母親を亡くしている。最近は、睡眠時無呼吸症候群に襲われていたともいう。

 1億円を超えるゼロワン時代の負債を、ずっと抱えていた。「本人は完済することを目標にしていた。それにはリングに復帰しないと…と言っていた」と伊藤弁護士。私生活では今年3月に離婚したことも公表された。真生さんは「兄は死んだら母の墓に入りたいと言っていた。だから、喪主は血のつながる人じゃないと」と、喪主を引き受けた理由を説明した。

 橋本さんは昨年12月、9時間以上に及ぶ右肩手術を受けた。以来、すべての雑音をシャットアウト。復活を目指してリハビリを続けていた。最近では、小川や蝶野が、それぞれの主戦場とするリングに橋本さんの来場を呼びかけ、「破壊王復活近し?」と思わせた。その最中の突然死。プロレス界を支えたトップレスラーの早過ぎる死はあまりにもショッキングだ。

http://chuspo.chunichi.co.jp/00/spogene/20050712/spon____spogene_000.shtml

40歳早過ぎる…破壊王・橋本真也さん急死 (スポニチ)

“破壊王”の異名を取った人気プロレスラー橋本真也(はしもと・しんや)さんが11日午前10時36分、「脳幹出血」のため横浜市内の病院で亡くなった。40歳だった。橋本さんは昨年末に右肩を手術、心臓に不安を抱えながら復帰を目指した矢先の悲報だった。新日本解雇、新団体設立、倒産など波瀾(はらん)万丈のレスラー人生を送った橋本さんの早すぎる死に、人気低迷にあえぐプロレス界は深い悲しみに包まれた。

 プロレス界に激震が走った。11日朝、橋本さんは横浜市内の自宅で「頭が痛い」と訴え、意識がもうろうとなった。同居の女性が呼んだ救急車で同南区の病院に運ばれたが、既に心肺機能は停止しており、まもなく死亡が確認された。

 橋本さんは1年前から不整脈に悩まされるなど心臓面に不安を抱えており、1週間前にも心臓の不調を訴えて都内の病院に入院、最近退院したばかりだった。妹・真生さん(32)も「心筋梗そくの疑いがあり、本人は調べてもらうと言っていた」と明かす。

 しかし、04年8月以来の復帰を目指すため、心臓のケアよりも、長期離脱の原因であり同年12月に手術した右肩の治療を優先させた。関係者は借金返済による心労との関連性は否定したが、140キロ台の体には知らないうちに大きな負担がかかっていたとみられる。

 橋本さんは84年に新日本プロレスに入門。重厚なキックや垂直落下式DDTなどの大技を引っ提げ、スター街道を突き進んだ。同期生の武藤敬司(42)、蝶野正洋(41)とは闘魂三銃士を結成。団体の象徴でもあるIWGPヘビー級王者に輝くなど次世代のエースとして脚光を浴びた。しかし、00年4月、小川直也(37)との決戦に敗れ、引退を表明。ファンの嘆願でカムバックするものの同年秋、他団体との対抗戦実現へ動いたため、新日本から解雇を言い渡された。01年3月には新団体「ZERO―ONE」を立ち上げ一大ブームを巻き起こしたが、それも長くは続かなかった。約1億円の借金を抱え、04年11月に「ZERO―ONE」は活動を停止。それでも「復帰すれば借金も完済できる」と漏らしていたという。

 11日夜会見した橋本さんの代理人の伊藤弁護士は「復帰は返済のためでなく、お世話になった人の気持ちに応えたいからと語っていた。明るい表情だっただけに、残念で仕方ない」と語った。

 昨年デビュー20周年を迎えた三銃士興行の夢プランもかなわず、ハッスルでの小川との共演ももう見られない。

 「プロレス界の発展」を願っていた破壊王は、志半ばにして短い生涯にピリオドを打った。 【さらば破壊王…写真特集

http://www.sponichi.co.jp/battle/news/2005/07/12/01.html

破壊王・橋本真也さん死去…早すぎる40歳(サンスポ)

「破壊王」のニックネームでプロレス界を席巻した橋本真也さんが11日、脳幹出血のため横浜市内の病院で死去した。40歳だった。新日本プロレス時代に「闘魂三銃士」として活躍し、元柔道世界王者・小川直也(37)らとの死闘でファンの心を熱くしたリングの英雄。フリーレスラーとして右肩手術からの復帰を目指していた矢先の突然の訃報に、プロレス界は衝撃に包まれた。〔写真左:奪取した王者ベルトをリングで高々と掲げる橋本選手。この雄姿はもう見られない。同右中:代理人弁護士2人とともに会見する妹の真生さん=撮影・戸加里真司。同下:東京ドームの日本ハム−オリックス戦で始球式を務めた(96年9月10日)〕

 不死身の破壊王が、40歳の若さでこの世を去った。この日午前8時半ごろ、横浜市内の自宅で体調に異常を感じた橋本さんは、救急車で病院へ運ばれる途中に心肺機能が停止し、午前10時36分、横浜市内の病院で死亡が確認された。死因は脳幹出血だった。

 訃報を聞き、岐阜から上京した妹、真生さん(32)と橋本さんの代理人弁護士が、午後10時半すぎから会見。真生さんは「人を通して体のことは聞いていました。心筋梗塞の疑いがあるから、病院で調べてもらうと言っていました」と、兄の生前の体調不良を明かした。母親が60歳の時、脳出血で他界したことも気にしていたという。

 親交のあったジャパン・エレベーターサービスの石田克史社長は「悪いことが、ここ1、2年で重なり過ぎていると言っていた。心臓の調子が悪かったようだ」と話した。故人を生前に襲った体調不調の原因は、重なる心労にあったようだ。

 昨年11月、橋本さんの旗揚げしたZERO−ONEが経営悪化で崩壊。抱えた負債は1億円以上ともいわれた。負債を返済するため、フリー選手として再起を目指した矢先の昨年12月に右肩を手術。その後、リング復帰を目指してリハビリを続け、伊藤博弁護士(60)と先月30日に会った時は「秋以降に復帰したい。肩がかなり上がるようになった。医者からは奇跡だといわれた」と意気込んでいたのだが…。

 一方、私生活にも心労の種があった、夫人の和美さんと3月25日に離婚。関係者によると、和美さんが3人の子供(1男2女)を引き取り、暮らしているという。公私における不幸が、最強レスラーを憔悴させた。

 橋本さんは岐阜・中京商高(現中京高)の柔道部で活躍。卒業後、アントニオ猪木に憧れて新日本プロレスに入門し、同期の蝶野正洋、武藤敬司とともに『闘魂三銃士』と呼ばれ、プロレスブームを巻き起こした。

 重厚な技を繰り出すことから『破壊王』の異名をとり、1990年代の全盛期は1メートル83、135キロの肉体を武器に垂直落下式DDT、重戦車キック、ケサ斬りチョップなどの得意技を駆使して暴れまくった。IWGP王座をはじめ数々のタイトルを獲得し、ライバルにして盟友の小川直也らと死闘を展開した姿は、ファンの心に永遠に刻み込まれている。

 織田信長に心酔し、座右の銘は『天下布武』。武力をもって天下を統一することを目指した信長は、本能寺に倒れた。プロレス界を制する夢を持っていた橋本さんも、志半ばで突然、病に倒れた。その雄姿は、もう二度と見られない。

■葬儀日程
通夜は15日午後6時から、葬儀・告別式は16日午後0時半から
いずれも横浜市西区元久保町3の13、一休庵久保山式場で。
喪主は妹真生(まき)さん。自宅は横浜市青葉区美しが丘西3の54の9。
■橋本真也(はしもと・しんや)
 1965(昭和40)年7月3日、岐阜・土岐市生まれ。84年4月に新日本プロレス入門。同年9月1日に後藤達俊戦でデビュー。同期の武藤敬司、蝶野正洋との闘魂三銃士として人気を集め、IWGPヘビー級王座を3度、同タッグ王座を2度戴冠、98年にG1クライマックスで優勝した。00年4月に小川直也に敗れ引退を表明。同年10月の藤波辰爾戦で復帰したが11月に新日本を退団。01年3月に新団体ZERO−ONEを旗揚げした。04年からハッスルにも参戦同年11月にZERO−ONEから離脱を表明した。1メートル83、111キロ(全盛時は135キロ)。

★過度のストレスが血圧あげ悲劇呼ぶ…医師の分析
冨名腰文人(羽衣クリニック院長)

 脳幹というのは、脳の中でも最も重要で、呼吸などをつかさどる部分。そこが出血すると、呼吸中枢が圧迫されて呼吸不全となり、やがて心不全に至る。一般に脳の出血の主な原因は高血圧。橋本さんはプロレスラーであり、ボリュームある体をしていたことで、もともと血圧が高かったのではないか。

 加えて、リングの上での激闘、けが、さらに経営者としてのものなど、さまざまなストレスがさらに血圧を上げる要因となる。故障の痛みを抑える薬や、肉体を維持するサプリメントなども服用していたというが、そのコントロールに失敗し、血管がもろくなっていたのかもしれない。

 過度のストレスには、40歳という若さでも肉体は悲鳴を上げる。やはり日ごろの健康管理が大事ということだ。

■脳幹出血
 高血圧、動脈硬化、脳動脈瘤などが原因で脳の血管が切れて脳内に出血した状態を脳内出血といい、それが脳幹部に起きたもの。脳内出血のうち5%程度。脳幹には呼吸中枢のほか脳神経が多く集まっているため、大出血が起こると血の塊(血腫)が周囲を圧迫し、そのまま死に至ることもある

★遺作「力道山」が来春公開

 橋本さんは来年春に公開される日韓合作映画「力道山」(ソン・ヘソン監督)で、大相撲の横綱からプロレスに転向した東富士をモデルとした東浪の役を演じた。力道山役の韓国俳優ソル・ギョングや、中谷美紀、藤竜也、萩原聖人らと共演。映画の日本配給元ソニー・ピクチャーズ エンタテインメントは「橋本選手をスクリーンで見られるのは本作が最後となってしまいました。ご冥福をお祈りいたします」としている。

http://www.sanspo.com/fight/top/f200507/f2005071201.html

プロレス界に衝撃…橋本急死(デイリースポーツ2005/7/12)

“破壊王”の愛称で親しまれた人気プロレスラー、橋本真也さんが11日午前10時36分、横浜市内の横浜市立大付属市民総合医療センターで亡くなった。40歳だった。岐阜県出身。死因について、橋本さんの代理人側は「脳幹出血」と発表した。橋本さんはこの日朝、横浜市内で倒れ、救急車で同病院に搬送されたが、すでに心肺停止状態で、間もなく死亡が確認された。フリーの立場で今秋のリング復帰を目指していた矢先の無念の死となった。


 破壊王、死す―。現役トップレスラーの急死。あまりにも突然で、衝撃的な訃報(ふほう)がプロレス界に激震を走らせた。

 橋本さんの代理人側は11日夜、横浜市内で緊急会見。橋本さんはこの日朝に「横浜市内の自宅」で倒れ「午前10時36分に病院で死亡が確認された」と発表した。急死に至る経緯について、代理人側は「最後に会ったのは6月30日。状況は把握していない」と明言を避けた。岐阜県から会見に出席した妹の真生さんは「母が脳出血で亡くなり、橋本本人も気にしていた」と体調に不安を抱えていたことを明かした。

 橋本さんは「遅くても今秋、復活する。レスラーとして数年で負債を完済する力はある」と意欲を示したが、ZERO―ONE崩壊で抱えた1億円を超える負債には「相当な心労があったと思う」(代理人)という。代理人側は、橋本さんが今年3月25日に離婚していたことを明かし、真生さんが喪主を務める。

 遺体が仮安置された病院に駆けつけた闘魂三銃士の盟友で新日本の蝶野正洋は「先週、本人に“体調が悪い”と聞かされた。“心臓が悪い”とも」と証言。新日本の坂口征二相談役は「10月の東京ドーム大会に彼の名が挙がっていた。復帰戦は新日本でやってほしかった」と唇をかんだ。

 格闘技に押されてプロレス人気が低落する中、1990年代に一時代を築いた橋本さんはプロレス再興の起爆剤となるべき人物の1人だったが、結果的に、昨年8月31日のZERO―ONE岩手・盛岡大会がラストマッチとなり、二度と再び、その勇姿をリングで見ることはできなくなった。昨年末に右肩手術に踏み切り、05年中の現場復帰を目指していたが、志半ばで橋本さんはあの世へと旅立った。想像を絶するプレッシャーが、橋本さんの心身をむしばんでいったのかもしれない。あまりにも惜しまれる死だった。

http://www.daily.co.jp/ring/2005/07/12/179688.shtml

橋本が死ぬなんて…40歳脳幹出血(日刊スポーツ2005/7/12)

 破壊王死す!! 人気プロレスラー橋本真也さんが11日午前10時36分、横浜市内の病院で脳幹出血で死去した。40歳の若さだった。同市内の自宅で倒れて救急車で搬送されたが、すでに心肺停止の状態だった。橋本さんは84年4月、新日本プロレスに入門し、同期の蝶野正洋(41)武藤敬司(42)と闘魂三銃士として人気を集めた。00年11月には新団体ゼロワンを旗揚げしたが、団体経営と右肩痛に苦しんで昨年11月、活動停止を発表。長期休養からフリーとして復活に備えていた矢先の急死だった。岐阜県出身。

 突然すぎる死だった。11日朝、橋本さんは横浜市内の自宅で倒れた。救急車で南区の市立大付属市民総合センターに搬送されたが、すでに心肺停止の状態だった。午前10時36分、脳幹出血のため、帰らぬ人となってしまった。関係者には「今秋にはリングに戻りたい」と右肩痛からの復活に強い意欲をみせていたが、リングに戻らぬまま他界…。無言でプロレス界に別れを告げた。今月3日に40歳を迎えたばかり。あまりにも早すぎる死だった。

 この日夜に横浜市内で会見した橋本さんの代理人、伊藤博弁護士は以前から不整脈を訴えていたことを明かした。母與志江さん(享年50)も橋本さんが16歳の時、同じ病気で倒れて亡くなっており、家系的に高血圧の症状があった。喪主を務める妹真生(まき)さんは「調子が良くないと聞いていて、心配していました。心筋梗塞(こうそく)の疑いがあるので診察してもらうと言っていたのですが…」と言葉を詰まらせた。

 不運な出来事も重なった。昨年12月に手術した右肩は回復に向かい、リハビリを再開していた。しかし今度はひざ痛に苦しみ、最終的には不整脈が体をむしばんだ。今年3月25日にはかずみ夫人との離婚が成立。橋本さんの十年来の友人となる石田克史さんは「新日本時代はケガに強かったのに。悪いことばかりが重なった」と肩を落とした。昨年11月に団体経営の悪化を理由にゼロワンの活動停止を発表したが、数億円といわれる負債は残っている。伊藤弁護士とともに代理人を務める稲垣隆一弁護士は「本人は負債の完済を目標としていた。法的整理も本人が嫌がった。誠意を尽くして完済するためにレスラーとして復帰したいと話していた」と橋本さんの無念さを代弁した。

 一時代を築いた人気レスラーだった。84年に入門した新日本で猪木イズムを受け継ぎ、自ら「闘魂伝承」を背負った。けさ斬りチョップ、太い両足から繰り出す豪快なキック、体重135キロの巨体から見舞った垂直落下式DDTでファンを熱狂させた。戦いは常に真っ向勝負。プロレスの醍醐味(だいごみ)、強さを表現してきた。90年以降は新日本のメーン戦士に成長した。当時、新日本が飛躍を目指して東京ドーム興行で勝負に出た時期。橋本さんのすさまじいファイトがドーム興行を軌道に乗せた。プロレスをメジャー競技に押し上げた立役者だった。IWGP戦の死闘、小川との遺恨戦で世間を夢中にさせた破壊王。プロレス界の枠を超えた人気を誇っていた橋本さんは、もうリングに戻ってこない。
(日刊スポーツ 2005/7/12)
http://www.nikkansports.com/ns/battle/p-bt-tp0-050712-0005.html

長州「早すぎた」 (九州スポーツ2005.7.12より)

 橋本さんの訃報に直面*1した長州力は、ショックを隠しきれなかった。「コメントを出せる状態じゃない。早すぎたよな。早すぎた」。時には敵対した、かつての愛弟子の急逝に肩を落としていた。
noink

「野心と童心が同居した戦国武将」 丸井 乙生

「野心と童心が同居した戦国武将」
悼む

現代社会にはめったにいない、戦国武将のような人だった。岐阜県出身の橋本さんは「おれは織田信長の生まれ変わりだ」と信じ、その生きざまを実践しようとしていた。
01年にZERO−ONEを旗揚げした際も金銭面、選手発掘に苦労したが「桶狭間の戦い」を信じて走り続けた。
人間の器も大きい。宿敵・小川直也と電撃和解し、タッグを結成するまでの仲になった。
「おれは人を信じるところから始めたいんや」と話したことがある。
03年5月5日には、がんで他界した故冬木弘道さんの追悼試合で遺骨を抱き、電流爆破装置が付いた有刺鉄線ロープに飛び込んだ。
その男気に記者も涙した。
一方で、童心を併せ持っていた。幼少の頃からヒーローものが大好きで、学校の帰り道では「おれはきょう、仮面ライダー」と変身したつもりで冒険したという。
昨年までは事務所の神棚に仮面ライダーのベルトを飾り、毎日拝んでいた。
流行したハッスルポーズも、橋本さんが考案したものだった。
昨秋、公私ともに悩みごとが重なり「人が信じられなくなった」と漏らしていた。
つらい状況のまま亡くなったと思いたくないが、もう2度と橋本さんのような豪傑には会えないだろう。合掌。

(01年〜04年、格闘技担当・丸井 乙生)

長州発言抜粋 (東京スポーツ2005.7.15(7/14発売)より)

・橋本合同追悼興行には協力したい。主催が誰とか細かいことはアレしない。
・「こんなことでもないと(合同興行が)できないなんて。新聞の1面も。ほっとうに残念。
・三銃士の中で橋本が一番新日本に合った重いプロレスをやっていた。
・マット界を見渡しても一番激しさを持ったレスラーだった。
・(リキプロ)道場に来い。フリー同士なんだから遠慮すんなと伝えようとした矢先だった。若い。若すぎる。本当に残念だ。

ファンの声

376 名前:名無しさん@恐縮です[] 投稿日:2005/07/12(火) 01:00:15 ID:cplvbXvc0

厨房の頃、橋本は最強で友達もみんなファン、試合が始まる前、グッズ購入者にサインしてくれるんだけど
オレは一番安い500円の色紙さえも買えなかった。500円だよ!500円!
友達はタオルとかTシャツとか買ってんのに、オレは母親がくれたジュース代200円しか持ってなかった
友達がワイワイ騒ぐ中で、一人蚊帳の外・・・楽しい日なのに、悔しくて涙が溢れそうになった
それを見かねた友達が、オレを橋本の横に連れて行き
「すいません!橋本選手!コイツに握手してあげてもらえませんか?」
オレはびっくり、橋本は笑いながら握手をしてくれた
「サインもしてやるよ」橋本はペンを握って笑った
「何も買ってないし、いいです!握手だけでいいです!」
「いいから、いいから」
「本当にいいんです!買った人に不公平ですから!」
今思えば、つまらないことに異常に意地を張った自分が笑えるけど
あの時は、金の無い恥ずかしさと憐れみの優しさと思うと嫌だった
というか、オレ自身が荒んでたんだと思う
「そっかぁ…じゃあ、背中出してみろ」
無理矢理押さえ込まれ、シャツをまくり上げられた
  『パチン!!』
背中が火傷したような痛さに思わず声が出た
「今日の記念だ!忘れるなよ!」
そこにはさっきまでの笑顔ではなく、真剣な目の橋本が居た
「はい・・・ありがとうございます」
オレも友達も、オレが生意気だから怒ったんだと思った。家に帰って鏡を見ると、手の跡が真っ赤に残ってた
次の日に学校に行ったらヒーローだったけど、3日は痛くて風呂にはいるのもキツかったなぁ・・・

でも、今ならこう思えるんです
橋本さんはオレの背中を叩いたんじゃなくて
押してくれたんじゃないかって
貧乏で卑屈な俺の心を壊してくれたんじゃないのかなと
勝手な解釈ですみませんが、そう思っています

さようなら、そしてありがとう…心優しい破壊王。


破壊王関係記事:ナニコラタココラZERO-ONE崩壊危機・・・・チンタと御小の最終回


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